活動内容
2016.03.01
原爆投下と爆心地
エノラ・ゲイ号テニアン島離陸→原爆投下→原爆炸裂
3機の離陸から原爆投下までの時間経過
テニアン島 6日(日本時間) 0:37 気象観測機 Straight Flush 号広島へ向け離陸(乗組員9人 機長 Claude Eatherly) 1:45 Enola Gay号離陸 (乗組員12名) 1:47 科学観測機 Great Artiste 号離陸(乗組員13人 Charles Sweeney 機長、Harold Agnew 1968年ノーベル物理学賞を受賞した Luis Alvarez も同乗)1:49 写真撮影機 Dimples 91 (Necessary Evil)号離陸 (乗組員10人) (広島) 7:09 警戒警報発令 7:31警報解除 (松永)8:06 北上する2機と3分後もう1機を目撃 (西条)8:13 3機を確認 (広島)8:15 Great Artiste 号が3個の観測器を投下し南に向け左に急旋回 Enola Gay号 が Little Boy を投下し北に向け急旋回。 原爆投下から、爆発までの3つの段階 第1段階:(爆発まで44秒)ねじ式8個の時計作動 第2段階:(爆発まで後29秒)気圧で作動するスイッチは、高度2100mで電気回路をつなぐ 第3段階:(爆発まで後9秒)レーダー装置「アーチーズ」へ点火信号が送られて、放出されて地上で跳ね返ったマイクロ波を、八木アンテナがキャッチし始める。 (あと6秒)秒速347m、時速1200kmを超える速度で落下。点火システムの最後の回路がつながり、コルダイト爆薬が燃焼、ウラン235の砲弾が発射され、ウランにぶち当たり核分裂が起きた。 テニアン島 米軍は1944年(昭和19年)7月24日、日本の重要な基地であったテニアン島に上陸、8月2日に同島を占領。その後、南洋諸島で一番大きい飛行場であるハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)が建設されて、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。
リトルボーイ
搭載されたウラニウムについて
11/28(土)の資料調査研究会の研究発表会で、広島大学大学院の静間清特任教授から、広島原爆のウランについての説明があったので紹介します。 ▼広島原爆に搭載されたウランは濃縮度89%のウランが50kg、50%のウランが14.1kg、全部で64.1kg(注)。ウラン235は合計51.55kgとなるので、平均濃縮度は80.4%。 ▼ TNT 16キロトンのエネルギーを生み出すのは、912gのウラン235の核分裂。燃え残った50.6kgのウラン235は空中に放出された。一部は大気中に飛散し、残りが黒い雨に混じって地上に降り注いだが、降下した量を推定するのは難しい。 ▼資料館が所蔵している八島秋次郎氏宅の黒い雨の跡が付いた壁は三つ。 ・本館展示の壁(80cmx97cm)・企画展示などで利用される壁(41cmx53cm)・小片の壁(12cmx27cm)。黒い雨の痕跡から検出されるウラン中のU235の構成比は天然ウランより高い。それはリトルボーイに搭載されたウランが含まれている証拠。半減期30年のセシウム137も、爆発当時に比べ1/5に減少しているはずだが、今でも検出できる。 (注)50kgのウランは原爆材料用に作られた正規の高濃縮ウラン。この時点までにこれだけしかできなかったのです。量を増やすため、それまでに保管されていた14kgの低濃縮ウランも使いました。研究・試作段階で作られたものでしょう。
信管について
リトルボーイを爆発させたのはレーダー信管です。爆弾の前部に取り付けられたレーダー装置で地上からの距離(高度)を測定して、高さを引き金に作動しました。レーダー信管がうまく働かなかった場合に備えて、他にも、気圧信管(気圧を感知して作動)、時限信管(タイマーで作動)といった、空中で起爆するための信管が取り付けら一方、ファットマンには、これら三種類の信管が全て作動に失敗して、そのまま地上に落ちた場合に爆発させるため、着発信管(爆弾が着地すると作動)も装備されていました。ファットマンの最前部にある小さな突起がそれです。重大な機密事項だった
爆縮の仕組みを日本側に知られないためだと思われます。
- 1. AN 219 接地式の起爆装置
- 2. 対地測距用アンテナ
- 3. 電源
- 4. 起爆用コンデンサー
- 5. 爆弾の前後の楕円部分を固定しているヒンジ
- 6. プルトニウムと爆縮レンズ
- 7. 対地測距用レーダーと起爆用タイマーなどの制御装置
- 8. 起爆制御装置
- 9. 尾翼(20インチのアルミニウム製)
核分裂したウラニウムの重量は
リトルボーイのウラン235が全て核分裂していれば、800キロトンの爆発だったはずですが、実際は1キロ弱のウラン235が核分裂して16キロトンの爆発になりました。もし搭載されていた約50キロのウラン235が全て核分裂していれば800キロトンの爆発という計算になります。しかし、核分裂の連鎖反応が始まると体積が膨張し、臨界状態が崩れて連鎖反応が止まります。原爆では全ての核物質を使い切ることはできません。 B-29 全長:30.2 m、全幅:43.1 m、最大速度:576 km/h、巡航速度:350 km/h、 航続距離:6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時)、実用上昇限度:9,720 m、乗員:10名
原爆を投下したエノラ・ゲイとティベッツ機長 広島に向かって飛び立とうとするエノラ・ゲイの窓から出発の手を振る機長のティベッツ。 エノラ・ゲイは機長の母親の名前で、機長が日頃の母の励ましに感謝の気持ちを表すために、テニアン島を出発する前日自分で書いた。
夜の闇に包まれた出発前のエノラ・ゲイ
B-29の爆撃航程 目標に正確に投弾するためには、爆撃航程と呼ばれる飛行区間が必要だった。爆撃航程に入るとパイロット(右)は目標に向かって飛行高度、飛行方向、飛行速度を一定に保つとともに、機体を自動操縦にした。この爆撃航程の間はB-29の機首部分にいる爆撃手が飛行の主導権を握り、ノルデン爆撃照準器越しに目標を捉えると、投弾用のスイッチをセットした。B-29は機体がロックされた状態で目標に向かい、投弾のタイミングはノルデン爆撃照準器が自動的に判定した。ノルデン爆撃照準器は精密に設計されたアナログコンピュータだった。
ノルデン爆撃照準器
投下目標は広島市中心部のT字型の相生橋。爆心地は相生橋から300m。
高速で飛行する爆撃機から投下された原爆は放物線を描いて前方に落下した。
爆心地の特定 熱線によってできたこのような複数の影を延長することにょって、爆心地(空中の爆発地点)を特定することができた。 (広島貯金支局 / 爆心地から1.600m / 1945.10.4撮影)
爆心地 島病院
爆心地には今でも島外科内科(当時は島病院)がある。当時の院長は海外留学で腕を磨き、広島では有名な外科医だった。当日院長は出張手術で不在、長男は学童疎開で田舎にいたために、他の2人の家族とともに生き残った。しかし、そのとき病院にいた看護婦や入院患者約80人は即死。
倒壊した島病院と倒壊を免れた護国神社の鳥居 (1945年11月 米軍撮影)
現在の島外科内科
当時、学童疎開中で無事だった長男の一秀さんは名誉院長、息子の秀行さんは院長。
八木アンテナ
リトルボーイの頭部に付けられたアンテナは、今でもテレビアンテナとしても使われている八木アンテナが使用された。このアンテナが地上から反射する電波を受信し、地上からの距離を測り、原子爆弾はもくろんだ通り600m上空で自動的に炸裂した。八木アンテナは電気工学者の八木秀次と宇田新太郎が戦前に発明し、1926年~30年に日本、英国、米国で特許を取得。
ジオゾンデ
爆発後の気圧と温度の変化を測定するために科学観測機から3個のラジオゾンデが投下された。このパラシュートが見えたとたん原爆が炸裂したので、原爆にパラシュートが付いていたと誤解されることになった。 (写真は原爆資料館に展示されているラジオゾンデ)
パンプキン爆弾が投下された都市
死者420人、負傷者1200人(7月20日~8月14日) パンプキン爆弾の総重量は約 4,800kg、内部の爆薬またはコンクリートが約 2,900kg 、原爆投下の訓練のために、44の目標に49発投下。長崎型と同じ形で通常の爆弾を搭載。目視で投下後、速やかに155°の急旋回と急加速をして回避行動をとった。 爆発地点が目標から 300m しかずれなかったのは、この投下訓練の成果である。 原爆を実戦で使用する前に、新造された原爆搭載機の初期欠陥を見つけ出し、戦闘上で発生するさまざまな問題を事前に解決するために、専任の部隊による原爆投下訓練が必要でした。ファットマン型原爆は、構造上、内殻の部分を通常高性能爆薬に詰め替えるだけで簡単に高性能爆弾に変更できるので、ファットマン型の爆弾を使用することになりました。 訓練の目的には、地理を周知させることと、訓練用の目標を破壊することにより、搭乗員たちに心理的高揚を与える目的もありました。さらに、原爆投下の前に、日本人に少数機で高高度を飛ぶB29の姿を見慣れさせ、怪しまれないようにする目的もありました。
パンプキン爆弾
ただし、パンプキン爆弾(ファットマン型模擬原爆)の投下は全てが原爆投下訓練のためだったのではありません。 日本に投下された49発の内、42発は投下訓練のためでした。しかし、8月14日に投下された7発は最後の大空襲に加わったもので、部隊の報告書でも“訓練”ではなく、“攻撃”として記録されています。 投下の目標とされたのは原爆投下候補地だった京都市、広島市、新潟市、小倉市の各都市を4つのエリアに分けた周辺都市(広島市ならば宇部市、新居浜市など、新潟市ならば富山市、長岡市など)にあった軍需・民間の大規模工場・鉄道操車場等であった。原爆投下候補都市は、原爆による威力を正確に観測するために、事前の空襲は禁止されていたために周辺都市が目標となった。1945年7月20日、新潟エリアである富山市・長岡市・福島市・東京都(実例の一部として、現在の練馬区大泉学園地区、西東京市の西武柳沢駅近辺)へ計10発投下されたのを皮切りに30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)ほどが投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が出た記録が残っている。 しかし投下は爆撃手の目視によると厳命されており、天候などの制約があるため、必ずしもその場所に投下された訳ではない。アメリカ軍の資料によれば、前述の目標に投下できない場合には臨機目標としてどの都市でもいいので町の真ん中に落とすようにという指示があったとされる。その為、7月26日の訓練では天候悪化により富山の軍需工場への爆撃に失敗しその帰りに島田市(島田空襲)、焼津市、静岡市、名古屋市、大阪市など軍需工場とまったく関係ないところにまで投下されたというような例もある。 原爆投下より前の模擬投下は「フェーズI」として行われ、その後「フェーズII」として8月14日に春日井市に4発、挙母町(現豊田市)に3発投下されている。これは戦後にこの爆弾を使用して効果が得られるかどうかのテストとして行われたもので、有効な兵器とされたが生産コストに見合わないとして不採用とされた。そのため、テニアン島に残っていた66発のパンプキン爆弾はその場で海に沈められ破棄された。爆弾の破棄には機密保持の意味もあったとされる。
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