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活動内容

2016.02.25

インフラのすばやい復旧の秘密

被爆直後のインフラの復旧は驚くべきものだった

1. (鉄道)原爆投下当日正午過ぎ、広島駅(爆心地から2km)から約200人を乗せて国鉄の救援列車一号が広島駅を発車し山陽本線上りの西条駅まで行き、午後3時ごろに広島駅に帰り、再び西条方面に向かった。
3日後(56時間後)には山陽本線の下り線が開通。(当日、行方国鉄職員は不明者を除き、109人が死亡)

2. (水道)牛田浄水場の施設(爆心地から約2km)は損傷を受けたが、怪我をしながらも駆けつけた技術者の働きで、当日午後2時ごろには復旧。断水を免れた広島市の水道は1898年(明治31年)の給水開始以来、現在まで113年間無断水を続けている。

3.(電気)比治山(爆心地から約2km)の裏にあったため被害が軽微だった段原の変電所には、技術者が駆けつけて徹夜で復旧作業にあたり、翌7日には焼け残った宇品方面への送電を再開。続いて8日には広島駅一帯への送電も始まり、焼け残った中国配電本社社屋に電灯がともり、20日には残存家屋の3割、11月末にはそのすべてに送電が完了。

4.(放送)NHKは唯一被災を免れた原放送所(爆心地から約5km)で翌日午前9時、ローカル放送を開始。

5. (銀行)建物が頑丈だった日本銀行広島支店(爆心地から380m)は大きな被害を免れた。職員18名中8名が死亡したが、2日後の8日には12の民間金融機関にも窓口を貸して、揃って営業を再開。その一つ、芸備銀行(現広島銀行)では台帳が取り出せず、500円を限度に請求されるまま支払った。後日、台帳と突き合わせた結果、預金なしで引き出した人はいないし、預金額以上に引き出した人もいなかった。

6. (市内電車とバス)3日後の9日、市内電車は西天満町~己斐間の片道折り返し運行を開始。バス2台も広島駅~宇品間を運行開始。

7. (新聞)本社が壊滅した中国新聞社は、朝日、毎日、島根の各新聞社に代行印刷を依頼し、3日後の9日付けの新聞を発行した。

このように素早い復旧作業が始まりました。なぜそのようなことが可能だったのでしょうか。

被爆前、広島の防衛体制は非常に高度なものだったようです。原爆を防ぐためには全く役に立たなかったこの体制が、被爆後の救援・復興には大きく貢献しました。

「広島県史・原爆資料編」(1972年発行)からの引用です。
戦争末期、アメリカ機の空襲に対して、日本軍による防衛体制はほとんど機能しえなくなり、明治以来高度に組織化されてきた社会機構を極限まで利用した官民による防衛体制が、その精度を加えていた。日本有数の軍事都市広島は、空爆必至の判断のもとに、戦災諸都市の戦訓をとり入れながら、「ドイツのベルリン、ハンブルグの疎開よりも完璧」(アメリカ、ライフ紙)と称されるほどの防衛体制が確立されつつあった。

このような防衛体制も、原爆の前には無に等しかったのであるが、周辺町村を中心に全県下にはりめぐらされた救援体制網は、被爆直後の救援ならびに再建活動に大きく寄与しており、防衛体制全体が戦後の広島復興の性格を規定する一つの要因となっている。

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