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活動内容

2016.02.18

内部被曝はどのように隠蔽されてきたか?

内部被曝はどのように隠蔽されてきたか 原爆投下後、アメリカ政府は「被爆地に放射線の埃はなかった」、「核兵器は通常兵器同様、放射線で長期にわたり命を脅かすことはない」と残留放射線の存在を無視し、内部被曝を隠し、核兵器の虚像を描いてきた。 日本占領時代に、アメリカ政府は「国際放射線防護委員会(ICRP)(注1)」の構成員に国内委員会である防護委員会のメンバーを送り込むとともに、「内部被曝委員会」を解散させ、ICRPの被曝基準を設定した。つまり、「科学者」を動員して「科学的粉飾」を行わせたのである。その内容は ①放射性降下物はなかった。 ②初期放射線だけが被爆者を被曝させた。 ③被曝線量評価の物差しであるICRPの基準から内部被曝を見えなくさせた。 放射性降下物がなかったことを「証明」するために、1945年9月17日の枕崎台風を利用した。この台風で広島県では2000人が死亡、広島市では床上1mの浸水、長崎市では1300mの豪雨となった。その後でアメリカは大勢の「科学者」にかろうじて残っていた埃の放射線度を計らせ、「はじめから放射線の埃はこれだけしかなかった」と結論づけた。 この「放射性降下物はなかった」とした結果を受けて、初期放射線の影響がある爆心地より2km以内にいた人たちを「被爆者」、2km以遠の人々を放射線を浴びていない「非被爆者」とした。 原爆傷害調査委員会 (ABCC) は被爆者の傷害から内部被曝を排除して統計処理をした。しかし、フォイエルハーケ博士(注2)の研究で「非被爆者」の人たちの死亡率は、全国平均に比してずいぶん高いこと分かっています。 アメリカの内部被曝隠蔽の意図は、日本政府の内部被曝を無視した「被爆者認定基準」に集約された。このせいで、多くの疾病に苦しむ「内部被爆者」は切り捨てられてきた。 2003年から7年間に及ぶ306名による28の原爆認定訴訟のすべての判決で、内部被曝が認められたが、行政はなるべく認めないようにしている。 現在、ICRPの被曝基準が「国際的」、「科学的」とされており、多くの国や機関や科学者はこの基準に従っている。これらの基準は決して被災した側の視点に立って作られたものではなく、核兵器の人道性を隠すために作られたものである。 (注1) 戦後アメリカは原子力委員会設立と同時に全米放射線防護委員会を設立。そこに、マンハッタン計画に参加した人物が多数加わり、1950年、そのままの陣容で全米放射線防護委員会と併存して、ICRPを設立。組織の中には全米放射線防護委員会の時代から、7つの分会がつくられ、その2番目に内部被曝の研究組織が設けられたが、1951年までに秘密裏に閉鎖された。こうして内部被曝を無視した体制が確立した。 (注2)インゲ・シュミッツ-フォイエルハーケ(ドイツ人) 1997年設立の欧州放射線リスク委員会 (ECRR) 委員長 1983年、ABCCが遠距離被爆者と入市被爆者の放射線被曝を無視していることを批判する研究を世界で初めて発表した。 ECRRは湾岸戦争、イラク戦争における劣化ウラン弾、チェルノブイリ原発事故、福島原発事故などに付随する放射性物質の健康問題に関連した活動をしている。 (参考) 放射線による犠牲者数でICRPECRRの試算には大きな隔たりがある。1945年~1989年の世界で放射線により命を失った人の数を、ICRPは112万人、ECRRは5500万人としている。ECRRの方が荒っぽいという批判があるが、一方では内部被曝を考慮しているのでより本質的だという評価もある。“科学的”で客観的な被曝評価基準の確立が急がれる。 ●広島のABCCは1952年、原爆の残留放射線の人体影響について把握しており、調査が開始したが、翌年調査は中止した。日本側も詳細な調査をした形跡。 長崎の放影研は1989年まで内部被曝の調査をしていたが、「健康被害が確認されず、当初の研究目的を達成したため」と調査を中止した。調査に当たった研究者自身は報告書などで「内部被曝の影響は否定できない」、「原発事故が起きた時、汚染の影響の目安になる」等と調査研究の必要性を訴えていた。

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