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活動内容

2018.08.06

原爆の基礎知識

原爆はなぜ投下されたか?

1945年
4月27日の目標検討委員会から6月1日の暫定委員会、その後、投下までに決定された原爆の投下目標の基準(8月2日付の野戦命令で「攻撃日を8月6日とし、その第一目標は広島」とした。)

①出来るだけ早く日本に対して使用すること。(ドイツの降伏は5月9日。)

②投下は事前の警告(爆弾の性質についての)なしに使用すべきである。

(これに対して、開発に携わった多くの科学者たちは反対した。)

③連合軍の捕虜収容施設がない場所を目標にすべき。

(実際は広島で12名の米兵捕虜が死亡。)

④直径3マイル(約4㌔㍍)以上の大きな都市にある、最も破壊されやすい家屋その他の建築物に囲まれるか、あるいはこれに隣接した軍事施設あるいは軍需工場を目標とする。

(原爆の破壊範囲より小さい面積の都市では、原爆がどこまで破壊できるかわからない。)

⑤爆風によって効果的に被害を与えられること。

(広島では高度約600㍍、長崎では高度約500㍍で爆発させる。)

⑥通常の爆撃をしない都市を目標にする。

(焼け野原では原爆の破壊効果は不明。)

投下目標の都市は何度か変更されたが、5月28日、通常爆撃を禁止。原爆政策担当のスチムソン陸軍長官は、「京都は日本の古都であり、日本人にとって宗教的な重要性を持つ心の故郷である京都を原爆で破壊すれば、アメリカに対する深い憎悪を日本人に植え付け、戦後、日本人の協力が得にくくなる。」と、京都を目標から外し、代わりに長崎を加えた。

(1)原爆は軍事目的でなく、アメリカの日本単独支配という政治目的で使用された。

①原爆を使用しなくても日本は降伏していた。(軍事的、経済的、政治的に)

統合参謀本部の予測は、「11月1日に九州上陸、翌年3月1日に関東に上陸、被害者は約4万人。」

戦後「百万人の神話」(原爆投下は戦争終結を早め、連合軍将兵、日本の将兵など百万人の命を救った)を作り上げ、原爆投下の正当性と有効性をアピール。マンハッタン計画は約7兆円の予算、全米40大学の研究者と科学者を動員。全米に数百の工場をつくり、のべ55万人を動員。投下しないと政治的問題になるので、投下して、それが有効であったことを国民に示さなくてはならなかった。

②日本の終戦の決意の主因は、原爆投下でなく、8月9日0時のソ連の参戦。

③アメリカは、主にソ連に対して、軍事力の優位性を示し、戦後の政治的に有利な立場を確保したかった。原爆の使用により日本を降伏させることができれば、戦後ソ連の影響力が東アジアに及ぶのを避けられるとも考えた。

(2)原爆投下は人体実験であった。

①原爆投下命令書(参謀長代理 トマス・I・ハンディ:7月25日付)

❶「目視爆撃可能な天候になりしだい...投下すること。」(3番機が写真撮影)

❷「爆発の効果の測定と記録のために国防省から軍関係者および民間の科学者を派遣..」

(温度と気圧の変化を調査する観測器3個を1番機が投下)

❸「いかなるコミュニケ発表・情報公開も行ってはならない。」(情報検閲)

②マルセル・ジュノー赤十字国際委員会在日代表の医薬品・募金等の国際救援打電阻止。

③医療関連資料の隠蔽、アメリカ本国への持ち帰り、日本人医師の治療の妨害。

④ABCC(1947~1975年)は調査すれども、治療せず。

要人の発言

・ マッカーサー(アメリカ極東最高司令官)「私達は一貫して日本は崩壊と降伏寸前の状態にあると判断していた。」「原爆投下は軍事的にみれば全く不必要である。日本は降伏を準備している。」

・トルーマン(アメリカ大統領)「ソ連が参戦すれば日本はお手上げだ。」

・ バーンズ(アメリカ国務長官)「原爆は日本を打ち破るために必要なのではなく、ソ連をもっとコントロールしやすくするためだった。」

・ 米戦略爆撃調査団の報告(1946年)「原爆を落とさなかったとしても、ソ連が参戦しなかったとしても、1945年11月1日の九州上陸作戦予定日までに、さらに上陸作戦をしなかったとしても、12月31日以前に必ず日本は降伏していただろう。」

・ 近衛文磨(元首相)(1945年2月14日天皇に上奏)

「勝利の見込みなき戦争...一日も速やかに戦争の終結の方途を...」

原爆投下と爆心地

エノラ・ゲイ号テニアン島離陸→原爆投下→原爆炸裂

3機の離陸から原爆投下までの時間経過

テニアン島 6日(日本時間)

0:37 気象観測機 Straight Flush 号広島へ向け離陸(乗組員9人 機長 Claude Eatherly)

1:45 Enola Gay号離陸 (乗組員12名)

1:47 科学観測機 Great Artiste 号離陸(乗組員13人 Charles Sweeney 機長

Harold Agnewと1968年ノーベル物理学賞を受賞した Luis Alvarez も同乗)

1:49 写真撮影機 Dimples 91 (Necessary Evil)号離陸 (乗組員10人)

6:30 Enola Gay号の爆弾庫の中の車のシガレットライターのようなプラグが3個の一つ、機

内テスト用の緑のプラグを、実戦用の赤のプラグに取り換えた。(投下すれば爆発する状態に

爆弾を置く)

これらのプラグはリトルボーイの修復の際見つかったもの。赤いプラグはスペアーであろう。

(広島)  7:09 警戒警報発令 7:31警報解除
(松永)8:06 北上する2機と3分後もう1機を目撃
(西条)8:13 3機を確認 監視員は野戦電話で広島城の通信室へ連絡。

ラジオ局では古田アナウンサーが「中国軍管区情報!敵大型3機西条上空を・・・」、そこまでだった。
爆弾投下90秒前
機長は操縦輪から手を放し、機を爆撃手のフィアビーに任せた。フィアビーはノルデン照準機の自動操縦装置で爆撃機を飛ばす。
8:15 原爆投下
アイピースの十字線の真ん中に橋が来た。フィアビーはスイッチを入れた。
爆弾が宙に放たれた瞬間、爆撃機は数十メートル上昇した。機長は自動操縦装置を解除し、熱線や爆風の直撃による影響を避けるためにバンクして進路を155度急旋回し、速力を増すために、機体を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になった。
EnolaGay号の背後ではGreat Artiste号が爆弾の威力を測定するために、3個のパラシュート付きアルミニュム製の容器を落した。即座にSweeney機長は左に急旋回した。
LittleBoy は爆弾倉を離れるや横向きにスピンしふらふらと落下したバンクとは飛行機の内側の翼を低く外側の翼を高くなるようにして横へのスリップを防ぐこと
そのころ、写真撮影機Dimples 91は30キロ南で撮影のために旋回していた。
                            
 原爆投下から、爆発までの3つの段階

第1段階:(爆発まで44秒)ねじ式8個の時計作動
第2段階:(爆発まで後29秒)気圧で作動するスイッチは、高度2100mで電気回路をつなぐ
第3段階:(爆発まで後9秒)レーダー装置「アーチーズ」へ点火信号が送られて、放出されて地上で跳ね返ったマイクロ波を、八木アンテナがキャッチし始める。

(あと6秒)秒速347m、時速1200kmを超える速度で落下。点火システムの最後の回路がつながり、コルダイト爆薬が燃焼、ウラン235の砲弾が発射され、ウランにぶち当たり核分裂が起きた。

 
テニアン島
米軍は1944年(昭和19年)7月24日、日本の重要な基地であったテニアン島に上陸、8月2日に同島を占領。その後、南洋諸島で一番大きい飛行場であるハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)が建設されて、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。

                                                                                                                                                                                                                                   広島に投下された原子爆弾リトルボーイ (全長3.2m 幅71cm)

 
B-29
全長:30.2 m、全幅:43.1 m、最大速度:576 km/h、巡航速度:350 km/h、
航続距離:6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時)、実用上昇限度:9,720 m、乗員:10名
原爆を投下したエノラ・ゲイとティベッツ機長
広島に向かって飛び立とうとするエノラ・ゲイの窓から出発の手を振る機長のティベッツ。

エノラ・ゲイは機長の母親の名前で、機長が日頃の母の励ましに感謝の気持ちを表すために、テニアン島を出発する前日自分で書いた。 

                                                                                                                                                   B-29の爆撃航程
目標に正確に投弾するためには、爆撃航程と呼ばれる飛行区間が必要だった。爆撃航程に入るとパイロット(右)は目標に向かって飛行高度、飛行方向、飛行速度を一定に保つとともに、機体を自動操縦にした。この爆撃航程の間はB-29の機首部分にいる爆撃手が飛行の主導権を握り、ノルデン爆撃照準器越しに目標を捉えると、投弾用のスイッチをセットした。B-29は機体がロックされた状態で目標に向かい、投弾のタイミングはノルデン爆撃照準器が自動的に判定した。ノルデン爆撃照準器は精密に設計されたアナログコンピュータだった。
 
ノルデン爆撃照準器
投下目標は広島市中心部のT字型の相生橋。爆心地は相生橋から300m
広島原爆に搭載されたウランについて

11/28(土)の資料調査研究会の研究発表会で、広島大学大学院の静間清特任教授から、広島原爆のウランについての説明があったので紹介します。 ▼広島原爆に搭載されたウランは濃縮度89%のウランが50kg、50%のウランが14.1kg、全部で64.1kg(注)。ウラン235は合計51.55kgとなるので、平均濃縮度は80.4%。

▼ TNT 16キロトンのエネルギーを生み出すのは、912gのウラン235の核分裂。燃え残った50.6kgのウラン235は空中に放出された。一部は大気中に飛散し、残りが黒い雨に混じって地上に降り注いだが、降下した量を推定するのは難しい。

▼資料館が所蔵している八島秋次郎氏宅の黒い雨の跡が付いた壁は三つ。 ・本館展示の壁(80cmx97cm)・企画展示などで利用される壁(41cmx53cm)・小片の壁(12cmx27cm)。黒い雨の痕跡から検出されるウラン中のU235の構成比は天然ウランより高い。それはリトルボーイに搭載されたウランが含まれている証拠。半減期30年のセシウム137も、爆発当時に比べ1/5に減少しているはずだが、今でも検出できる。

(注)50kgのウランは原爆材料用に作られた正規の高濃縮ウラン。この時点までにこれだけしかできなかったのです。量を増やすため、それまでに保管されていた14kgの低濃縮ウランも使いました。研究・試作段階で作られたものでしょう。

(「原爆資料館ガイド有志の情報交換紙」からの引用です。)

原田さんからの情報でブログの内容が充実しています。ちなみに原田さんは私が原爆資料館のガイドの研修中に指導を受けた方です。中国新聞(2015.11.30)

原子爆弾の爆発後何が起きたか

1 (放射線)原子核分裂とともに放射線が放出された。(中性子の約90%は核爆発から100万分の1秒以内で放出された。このとき原爆はまだ形をとどめていた) 爆発後1分以内に放出された初期放射線によって、爆心地から約1km以内にいた人は、致命的な影響を受け、その多くは数日のうちに死亡した。

それ以後のある期間は残留放射線が内部被曝などの影響を与えた。

(リトルボーイのウラン235が全て核分裂していれば、800キロトンの爆発だったはずだが、実際は1キロ弱のウラン235が核分裂して16キロトンの爆発になった。もし搭載されていた約50キロのウラン235が全て核分裂していれば800キロトンの爆発という計算になる。しかし、核分裂の連鎖反応が始まると体積が膨張し、臨界状態が崩れて連鎖反応が止まる。原爆では全ての核物質を使い切ることはでない。)

2 (熱線)空中に発生した火球は、1秒後には1秒後に半径200メートルを超え大きさになった。約10秒後に火球の光輝は消えた。この火球から放出された熱線(赤外線)は、爆発後0.2秒から3 秒間地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000℃に達した。

爆心地から600mでは、2,000℃。
爆心地から3.5kmのところでも、衣服を着ていなかった人は熱線が直接あ浴びたために火傷を負った。
 爆発後  火球半径  表面温度
 0.2秒  200m  7,700度 以降、温度は低下
 0.3秒  210m  6,000度 表面温度:太陽並み
 1.0秒  220m  3,000度

(注意)熱線のせいで川の水が熱くなったり、人の体が蒸発したり白骨になることはない。

爆心地から600m以内の屋根瓦はこのようにブツブツの泡状になった。

 爆発後  火球半径  表面温度
 0.2秒  200m  7,700度 以降、温度は低下
 0.3秒  210m  6,000度 表面温度:太陽並み
 1.0秒  220m  3,000度

(注意)熱線のせいで川の水が熱くなったり、人の体が蒸発したり白骨になることはない。

爆心地から600m以内の屋根瓦はこのようにブツブツの泡状になった。

3 (爆風)爆発点は数十万気圧となり、周りの空気が急激に膨張して衝撃波が発生し、その後を追って強烈な爆風が吹き抜けた。

衝撃波は爆発の10秒後には3.7km先まで達した。その圧力は爆心地から500mのところで、1平方メートルあたり19トンに達した。
爆風がおさまると、中心部の空気が稀薄になり、周辺部から爆発点に向かって吹き戻しがあった。
爆心地から2km以内の木造家屋はほとんど倒壊した。
 (気圧の低下によって)眼球が飛び出していた人や遺体を見たという証言がいくらかある。
爆心地から1.5km以内にいた人の鼓膜は破裂した。
 爆心地から1.5kmの日赤病院の壁。窓ガラスの破片が突き刺さった痕が残った。

爆心地から1.5kmの日赤病院の壁。窓ガラスの破片が突き刺さった痕が残った。

ガラス片が突き刺さったままの爆心地から2,200mの人家の壁。爆心地側に山があって、爆風が直接届かなかったにもかかわらず、巻込んで吹いてきた強烈な爆風によって、割れた窓ガラス片が飛び散り、壁に突き刺さった。(「ヒロシマを世界に」広島平和記念資料館刊)

4 (高熱火災)強烈な熱線により、市内中心部の家屋が自然発火し、倒壊家屋の台所で使われていた火気などなどにより、    午前10時頃から午後2~3時頃を頂点に、終日全市をおおう勢いで燃え続けた。被爆時人口 / 約42万人                                      熱線と爆風による建物被害(被害前76,000戸)

全焼 / 47,804戸
全壊 / 3,800戸
半焼・半壊・大破 / 18,240戸
合計 / 69,844戸
 
民間日本人死亡者数
1944年12月末まで(日本初の国勢調査)
13万 ~15万人
 広島では超高温の火球が中心部に強い上昇気流を生み出した。地表では空気が周辺から猛烈な勢いで吹き込み、中心部まで酸素がいき渡った。つまり、広島はきのこ雲という巨大な煙突を持ったストーブ状態になったので、通常では考えられない高熱の火災となり、中心部で人々は真っ黒に焼かれた。
(一方、広い地域が燃え上がった東京では、周辺から吹き込む空気中の酸素が中心部に行き着くまでに消費されてしまった。このため、中心部では酸欠状態になり、火勢は衰えたが多くの人が窒息で亡くなった。)
5(黒い雨
爆発の直後、きのこ雲が立ち上がり、泥やチリなどが上空に巻き上げられた。さらに、爆発後に発生した大火災によるススが、暖められた空気とともに上空に吹き上げられた。これらのチリやススなどは放射能を浴びており、空中の水滴と混じり雨粒となって、爆発後20~30分後頃から、市の北西部地域に大雨が降った。大雨の間は盛夏にもかかわらず急激に気温が低下し、裸か薄着のままで逃げていた人々は、寒くて震えるほどだった。この雨は「黒い雨」と呼ばれ、放射性降下物の一種である。
 
白壁に残った黒い雨の痕(爆心地から3,700m)
発生したエネルギーの内訳

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