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活動内容

2016.02.21

原爆の子の像(サダコ)

原爆の子の像 ○建立者 広島平和をきずく児童・生徒の会 ○制作者 東京芸術大学教授 菊池一雄氏 像の高さは9メートルで、その頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、 平和な未来への夢を託しています。 側面左右の二体は少年と少女と明るい希望を象徴しています。像の下に置かれた石碑には、 「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。 塔の内部には、少年少女たちの気持に感動したノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、 「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘がつられ、その下に金色の鶴がつるされ、 風鈴式に音がでるようになっています。(この鐘と金色の鶴は、平成15年(2003年)に複製されたもので、 オリジナルは広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されています。)


原爆の子の像(サダコ):1

原爆の子の像(サダコ):2

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● 禎子が死去した年の1年間に16人の子どもが原爆症で死去。 ● 像ができたときの会計をみると、450万円の募金を集め、 その中で子どもが使ったお金はわずか550円と記入されています。 しかも、このお金は子どもたちが、街頭募金に立ったときのパン代なのです。 ●碑文は市内の児童・生徒だけでなく、広く大学生や、一般の人々からも募集した。 募集の刷り物を作るときに、会の子どもたちは、平和公園の慰霊碑にきざまれている。 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」などという、、誰が誓うのか、 意味の通らないものはつくるまいと決めた。 「おとなの決めるものはあいまいで、すっきりしないものが多い。 私達はもっと決意のみなぎったものをつくりたい。」、という意見でした。 禎子が死去した年の1年間に16人の子どもが原爆症で死去。 ● 像ができたときの会計をみると、450万円の募金を集め、 その中で子どもが使ったお金はわずか550円と記入されています。 しかも、このお金は子どもたちが、街頭募金に立ったときのパン代なのです。 ●碑文は市内の児童・生徒だけでなく、広く大学生や、一般の人々からも募集した。 募集の刷り物を作るときに、会の子どもたちは、平和公園の慰霊碑にきざまれている。 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」などという、、誰が誓うのか、 意味の通らないものはつくるまいと決めた。 「おとなの決めるものはあいまいで、すっきりしないものが多い。 私達はもっと決意のみなぎったものをつくりたい。」、という意見でした。 ● 禎子が死去した年の1年間に16人の子どもが原爆症で死去。 ● 像ができたときの会計をみると、450万円の募金を集め、 その中で子どもが使ったお金はわずか550円と記入されています。 しかも、このお金は子どもたちが、街頭募金に立ったときのパン代なのです。 ●碑文は市内の児童・生徒だけでなく、広く大学生や、一般の人々からも募集した。 募集の刷り物を作るときに、会の子どもたちは、平和公園の慰霊碑にきざまれている。 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」などという、、誰が誓うのか、 意味の通らないものはつくるまいと決めた。 「おとなの決めるものはあいまいで、すっきりしないものが多い。 私達はもっと決意のみなぎったものをつくりたい。」、という意見でした。  禎子が死去した年の1年間に16人の子どもが原爆症で死去。 ● 像ができたときの会計をみると、450万円の募金を集め、 その中で子どもが使ったお金はわずか550円と記入されています。 しかも、このお金は子どもたちが、街頭募金に立ったときのパン代なのです。 ●碑文は市内の児童・生徒だけでなく、広く大学生や、一般の人々からも募集した。 募集の刷り物を作るときに、会の子どもたちは、平和公園の慰霊碑にきざまれている。 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」などという、、誰が誓うのか、 意味の通らないものはつくるまいと決めた。 「おとなの決めるものはあいまいで、すっきりしないものが多い。 私達はもっと決意のみなぎったものをつくりたい。」、という意見でした。

原爆の子の像(サダコ):5

原爆の子の像(サダコ):5

● 像の正面のVの紅サインは正面を示すアクセサリーで、特別の意味はない。
(鶴が飛んでいる姿だという関係者がいます) 当時は今のような折り紙(色紙)は手に入りにくかったので、
サダコは二歳年上の大倉さんと病院中を回って、 お見舞い品の包装紙や薬の包み紙をもらってきては、
7センチ四方くらいの大きさに切り、せっせと鶴を折った。
二人が折った鶴はそれぞれ一カ月もたたないうちに千羽に達した。
大倉さんが8月の末ごろ退院した後も、サダコは鶴を折り続けた。
千羽を超えた後、折り鶴は次第に小さくなっていった。針の先で一生懸命折った。
父親があまり根を詰めないようにと言っても、「いいから、考えがあるんだから」としか言わなかった。

原爆の子の像(サダコ):6
サダコが亡くなった後で、ベッドの下で見つかった血液検査の数値を記録した用紙。
だれも病名をおしえなかったのに、サダコは血液の病気と気づいており、密かに検査結果を写していたのです。
記録は7月4日で終わっています。
原爆の子の像(サダコ):7

サダコの遺体はABCCで解剖された 2歳の時に家族と共に爆心地から約1.7kmの楠木町の自宅で被爆した禎子は、
爆風で屋外まで飛ばされたが、 やけども傷も負わなかった。すぐに辺りから火の手が出始めたので、
禎子は母親に背負われ避難。その際、 三篠橋付近で「黒い雨」に打たれた。
1月末にABCCで亜急性リンパ性白血病の疑いがあると診断され、2月21日、日赤病院に入院し加療中であった。
原爆から10年2ヶ月経過した10月25日、午前9時57分、12年の生涯を終えた。
遺体はABCCで研究のために解剖された。身体は骨髄、内蔵など、ほぼ全身が病に冒されていた。
白血病だけでなく、甲状腺にガンができていた。禎子の例は子どもの甲状腺ガンとしては初めてのものだった。
(布のようなもので、喉の傷を隠しています) サダコの遺体はABCCで解剖された
2歳の時に家族と共に爆心地から約1.7kmの楠木町の自宅で被爆した禎子は、爆風で屋外まで飛ばされたが、
やけども傷も負わなかった。すぐに辺りから火の手が出始めたので、禎子は母親に背負われ避難。
その際、 三篠橋付近で「黒い雨」に打たれた。 1月末にABCCで亜急性リンパ性白血病の疑いがあると診断され、
2月21日、日赤病院に入院し加療中であった。
原爆から10年2ヶ月経過した10月25日、午前9時57分、12年の生涯を終えた。
遺体はABCCで研究のために解剖された。身体は骨髄、内蔵など、ほぼ全身が病に冒されていた。
白血病だけでなく、甲状腺にガンができていた。禎子の例は子どもの甲状腺ガンとしては初めてのものだった。
(布のようなもので、喉の傷を隠しています)

原爆の子の像(サダコ):8

被爆少女の死(原爆資料館企画展)

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0107/exh01071
「原爆の子の像」の周辺には、折り鶴を捧げていただけるよう折り鶴ブースが設置されています。
今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、
その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにものぼります。

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2003年8月1日、「原爆の子の像」周辺に保管されていた折り鶴が燃えているのを通行人が発見、通報。 広島県警察広島中央警察署の捜査により、 防犯カメラに映っていた関西学院大学の4年生男子が器物損壊容疑で逮捕され、 一緒にいた友人2人も口頭で厳重注意を受けた。大学側は会見で陳謝した。 犯人の男子学生は同日早朝から友人と広島市周辺を旅行中であった。大学で留年し、 就職できずむしゃくしゃしていたことが事件の動機であったという。

原爆の子の像(サダコ):10
83歳の女性が一年かけて作った千羽の布製の鶴
原爆の子の像(サダコ):11
不思議な鶴
原爆の子の像(サダコ):12
何千羽の鶴が使われているでしょう
原爆の子の像(サダコ):13

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