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活動内容

2016.03.15

胃と腸の粘膜が剥がれて死亡した祖父

父の8月6日三登登美枝2003年記
58年前のあの日のことは忘れる事のできない日である。また、思い出したくもない、語りたくもない日である。語ったとて、体験した者でなければわかるものではない。考えたくもないし、胸のつまる思いでいっぱいである。しかし、二度とあってはならないことを切望すれば、記憶にあることのみでも記しておくべきだと思う。

この日の爆音は今までのB29の音より異なって、腹の底に響くような低く力強さのある音だった。丁度家の外に出た時だった。真っ黒い大きな機体が呉沙々宇山の山に腹をすれすれに西へと姿を消した途端、大きな音がしたと同時に家の天井は落ち、煤が灰を撒くように降りてきた。後で気がついたことであったが、障子や襖や雨戸は斜めになって元の通りには動かなかった。

しばらく時が経って、広島市内が焼けているという情報が入ったが、半信半疑。「まさか」と思いつつも、時が時(戦時下の真っ只中)だけに胸騒ぎがする。近所の人たち同感だったのだろう、言葉もなく早足に山の上に登った。そこは毎年四月三日に近所のみんなが一緒にお弁当を持って花見に行った禿山であり、そこからは広島市内が真下に見える場所である。

そこで目にしたのは広島市内全体が炎を上げて燃えている火の海であった。みんな只、只茫然と立ったまま足が釘付けになって、全身を震わせて言葉も出なかった。これが現実とは到底思われなかった。そのうちに、それそれに市内へ出勤した家族のことが気になり、黙々と下山した。

静かな山村にもやがて罹災者のニュースが伝わってきて、それぞれに心を痛めている中に、「あの人が」、「この人が」ヤケドされたという声があちらこちらから聞こえてくる。何も手に付かずただおろおろとしてばかりである。そのうち、けがをされた人たちがトラックで罹災地から学校、寺などへ次々に運ばれてきた。

私は食事もとらず、いや、とることも忘れて、ひたすら父と主人の身を案じているうちに、外は暗くなってきた。もしや焼け死んだのではと口には出さなかったが、家族のものは不安で家の中や外でうろうろしていた。灯火管制中のこととて、電灯の光は鈍い。夜の九時ごろだったろか、その暗い中で「ただいま」の声がした。飛んで  出てみたら、父であった。

まるで俗に言う「ゆうれい」かと思うほど顔は前後の区別がつかないほど真っ黒。着ている服はボロボロに破れてたれ下がり、丁度しわしわのワカメをぶら下げているようであった。ズボンも同じような状態で、所々にあいた穴からすすけて肌が黒く見えている。ともかく、生きて帰宅できたことにほっとした。

しかし、主人は一晩中帰宅しなかった。探しにいくこともできず、ただただ、心配の中に夜が明けた。翌日も帰宅しなかった。そして2日後にやっと帰宅した。主人は当時師範学校の教師で丁度校舎の階段の下に居て無傷だった。すぐに学生の救出に出たため、すぐには帰宅できなかったとのこと。

父はその日の通勤中に爆心地から600mの土橋で被爆し、土蔵の下に生き埋めとなった。時間ははっきりとは分からないが、二時間くらいもがいて、やっと頭を出したところを、学徒動員されていた学生さんに引っ張り出して頂いて、やっと外に出ることが出来たそうです。それから市内の焼けているところをさけて歩いていた時、知らぬ婦人に「熱いので、この日傘をどうぞ。」と頂き、それをさして半日以上かかって夜中にやっと家に着いたのです。

父は助かったことにとても喜んで家族の者や近所の方に「命拾いできました。」と喜んで話していました。それでも、傷は数えたら19箇所にあった。体にも痛む所があるので、治療に通っていた。ところが10日ばかり経った時、体一杯に赤い粟粒ほどの小さな斑点がでた。国立畑賀病院の院長先生に診察して頂いたところ、これは原爆のために毒ガスが傷口から入って、体中に広がっており、薬はないので手当てのしようがないとのこと。それでも「輸血でもしてみましょう。」と、息子の血液を幾度か輸血した。しかし、体はだんだん弱って口から、下から魚の内臓のような塊が洗面器に何杯か出た。体中の臓物が全部出てしまったようであった。その吐き出された汚物はとても異様な匂いがして。いつまでも消えなかった。

それからはどんどんと弱って動けなくなり、ノドになにも通らなくなった。栗の木の虫を黒焼きにしたらノドの薬になるというので、前の山の栗の木を切って、白い虫を取って焼いて食べさせようとしてもノドを通らない。あの手この手と薬のない時代の試行であったが、とうとう声も出なくなり、筆談となったが、なかなか力がなくて書けない。体はますます弱っていく。

死の3日前、自分名義の貯金通帳から引き出していたお金を、身内とお世話になった人に分けるように指示した。

9月3日の朝、7時のニュースを聞きたいから、寝巻きを着替えさせてくれと言うので、下着もちゃんと取り替えて、布団を高く背にして座らせると、じっと目をつむって手を膝の上に置き、正座のつもりか端正な姿でニュースを聞いていた。そのニュースは前日ミズーリ号で調印された降伏文書の内容であった。ニュースが終わったのが7時25分、父の息は切れた。几帳面で立派な父にふさわしい最後であった。                      

私がガイドしたアメリカ人夫婦が私と母の証言を織り交ぜて20分の映画を製作。

製作者の核廃絶の強い気持ちが込められた力作です。映画はこちらで見る事ができます。
 

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 この手記は私が平和公園でガイドをする際に、少なくとも家族に起きたことは話したいと思って、母(登美枝)に手記を書くように頼んで完成したものである。この手記の完成には一年を要した。筆を執るまでに半年、完成までにはまた半年かかった。私は「いつ出来上がるんね。」とせかしてばかりいたが、今思えばトラウマのせいで、このような手記を書くことはつらいことだったと思う。市内で目撃した惨状も書くように頼んだが、「他の人が書いているので、書きたくない。」と言って結局書くことはなかった。

私達の家は広島市内の小町という中心部にあった。空襲を受ける可能性が高いという理由で、安全な田舎に疎開する命令が出たので、原爆投下3ヶ月ほど前に市内の中心部から7キロ離れた畑賀村の母の実家に疎開していた。

父(義雄)は93歳で死亡したが、最後の一年間認知症と軽い糖尿病になったくらいで、いたって健康であった。帰宅したときに、「行方不明の生徒を捜していたので、帰宅が遅くなった。」、「帰りに(小町の)家の様子を見に行ったときに、すぐそばの学校のプールは遺体で埋め尽くされていた。」と言っただけで、それ以後は何も話すことはなかった。ほとんどの被爆者は今でも父のように家族にもほとんど何も語らない。

母は小町の家が心配で、3日後入市して胎児(浩成)とともに被曝した。12年前には膀胱に人差し指大のガンができた。医師は全摘出しないと転移の可能性が高いと言ったが、母は自分の意思で内視鏡での切除だけにした。術後は本人の希望で抗がん剤も放射線治療もしなかったが、運良く再発はしなかった。

3年前に突然高熱と、「殺してくれ!」と叫ぶほどの全身の痛みのために入院した。炎症反応は基準値の100倍あったが、ウィルスの正体は確認できないまま副作用の強い薬を使ったために、綱渡りの治療であったが半年後なんとか炎症は完治した。

しかし長い間寝たきりだったので、筋肉が衰えて立つこともできなくなったが、持ち前の強い精神力でリハビリを続けた。何とか歩けるようになると、3度の食事の前後に私の介助で、病院の2階分の階段を上り下りして足を鍛えた。治療に関わった医師達全員が「信じられない!」という速さで回復して、退院後3ヶ月後には市内に外出できるようになった。

現在は週2~3回鍼灸院に通っているが、歳の割には元気である。
(三登浩成 2009年3月記)

 

                     

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