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活動内容

2016.02.20

韓国人原爆犠牲者慰霊碑

1910年日本は韓国併合を強行しました。日本の植民地支配の中で、土地を奪われたために、職を求め、多くの朝鮮人が日本にやって来ました。
彼らは「創氏改名」で名前は日本流に変えられ、鉱山や工場、土木工事現場などで酷使されました。戦争が激しくなると、日本は人手不足を補うために朝鮮から多くの労働者を強制連行しました。軍事都市であった広島には、このような人達がたくさんいました。

こうして、敗戦のときに日本にいた朝鮮人は約300万人、広島には約10万人が居住していたと言われていますが、その実態は今日でも不明のままです。
現在では、約2万人が原爆でなくなったのではないかと思われます。

この碑(上記写真)はそうした同胞の死を悼んで、1970年4月に広島県韓国人原爆犠牲者慰霊碑建設委員会によって建てられました。

亀を形どった台座の上に碑柱、その上部に双竜を刻んだ冠がのせられており、以前はその中に身元が判明した死没者の名簿が納められていましたが、現在は亀の頭の下の石の箱に納めてあるそうです。(2009年8月5日現在、2,674人)韓国の銘石で作成し、運んできたものです。「死者が亀に乗って天国に上がる」という言い伝えがあるからです。

(注)古来、中国には死者の霊は西の果ての神山、崑崙山に鎮まるのを理想とする考えがあり、それを、龍、獅子、亀などが手伝ってくれると信じられていました。これが朝鮮に伝えられて、建国神話にも登場し、人々に広く敬われている亀の背に乗って・・・となったようです。また、亀の形をした碑の台石は亀趺(きふ・趺は台座の意)と呼ばれ、これも中国が起源です。もともと墓を守る4神のうち、北に位置した玄武(亀に巻きついた蛇)が、死者の功徳を書いた碑石をのせる台座として使われ、やがて安定の良い亀の形となって定着しました。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑:2

亀の頭は犠牲者の祖国、韓国の首都ソウルを向いています。

碑文
「悠久な歴史を通じ、わが韓国民族は他人の物をほしがらなかったし、他民族に害を加えよとはしなかった。そして他人よりも先に目覚め、幸福な生活をした誉れある時代もあった。しかし大国の谷間で、彼らの侵略によって国家が危うくなり、民生が不安に巻き込まれたことが数多くあった。...

韓民族はこの太平洋戦争を通じ、国家のない悲しみを骨身にしみるほど感じ、その絶頂が原爆投下の悲劇であった。国を失った王孫であったため、人知れぬ悲しみと苦難が一層大きかったイウ公殿下をはじめ、名分(注)のない戦争で、名分もなく死ななければならなかった同胞軍人、鍬と鎌をとって牛馬のように働かされた同胞徴用者、少なくとも合計五万には達すると見られる哀れな人々、彼らは広島市民とともに、戦争の息苦しい1945年8月6日、人類最大の惨劇がここに展開されたのである。...(注)名分=道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分

ここに志を同じくした同胞一同と、張泰煕設立委員長をはじめ、日本人有志の真心の結晶によって、遅ればせながら宿る所のない魂の眠るところを設けるに至った。願わくば二万余柱の御霊よ、すべての怨恨と憎悪をすべて忘れ、安らかに眠りたまえ。今後はこのような悲劇の種をまくもの、侵略の罪を犯すものも、侵略の悲しみを受けるものもないようにし、遠い隣国とも近い隣となり、永遠にお互いを助け合い、親しく仲良く暮らせるようにお守りください。平和を愛し、侵略と殺戮を憎むすべての人類は、ここに祭った御魂の犠牲を心から悲しみ、永遠の冥福を祈ります。また韓国民の熱い愛情はいつまでも御魂とともにある。」

慰霊祭は8月5日に行われます。韓国では、死者を祀る祭祀(チェサ)は命日の前日に行なう習慣があります

平和公園区域外の本川橋西詰にあったこの碑を、公園内に移設して欲しいという要望がだされるとともに、朝鮮が南北に分断されている現状のなか、移設は新しい統一碑にしようという願いも熱いものでしたが、1999年に元のままの形で現在の位置に移されました。

原爆は日本人だけだなく、朝鮮(韓国)をはじめ、アジア各地から来日していた「南方留学生」、アメリカ人捕虜、ドイツ人神父などの命も奪いました。

参考李鍝(イ・ウ、1912年11月15日 – 1945年8月7日)は、李王家の一族で、日本の公族。
日本統治時代の朝鮮で生まれる。1917年に興宣大院君の孫(父・李堈の従兄弟)李?決鎔の養子となり、雲峴宮の第4代宗主となる。李?決鎔が“公”の称号を保有していたことから、以降“李鍝公殿下”と呼ばれるようになる。
1922年に日本へ渡って学習院初等科に入学、その後陸軍中央幼年学校を経て、1933年に陸軍士官学校(45期)を卒業し、野戦重砲兵科に進んだ。
1935年、朝鮮貴族朴泳孝侯爵の孫娘である朴賛珠と結婚する。
1941年に陸軍大学校(54期)を卒業した。

1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀中佐であった李鍝は、馬に乗って司令部への出勤途中、福屋百貨店(爆心地から710m)付近で原爆投下に遭った。鍝は被爆後もそのまま西方へ馬を飛ばしたが、本川橋西詰でうずくまっているところを同日夕刻発見され、ただちに市内似島の病院に収容されたが、翌7日午後4時過ぎに死亡した。死後、陸軍大佐に昇進した。
御附武官の吉成弘中佐は、本来なら鍝に同行しているところ、偶然水虫のため一足早く第二総軍司令部に出勤して鍝を待っていたため、被爆死を免れた。しかし副官として自責の念に駆られ、鍝の死の直後にピストル自殺を遂げた。

李ウ公殿下の救出にあたった陸軍船舶部隊(あかつき部隊)の司令官、佐伯文郎中将は後に次のように記述しています。「(被爆当日の)夕刻、満潮を待って発動艇で(殿下を相生橋付近から、宇品の)凱旋館にお迎えした。手および顔面に少し火傷を見たのみで御元気であられた。早速診断申し上げたが、別条がない」。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑:6

 

この碑の建立と移設についての詳細

碑は、亀を形どった大きな台座の上に碑柱が立ち、頂部に双竜の図柄を刻んだ冠がかぶさっている。元々、碑は、平和記念公園の外の本川橋西詰の河岸緑地にあったため、「民族差別」ではないかとの声が出されていた。このため、広島市長は1998年12月、公園内への移設を許可する方針を表明した。これを受けて、韓国人原爆犠牲者慰霊碑移設委員会によって1999年5月に起工され、同年7月21日に完工式が行われた。(広島市のHP)

以下は「韓国人原爆犠牲者慰霊碑と『聖地』の論理 : 『聖地ヒロ シマ』をめぐる一考察」の抜粋です。

この慰霊碑は、在日韓国人の被爆者らを中心に平和記念公園の中への建立が企画されたが、1967 年9月 14 日に平和記念公園の管理・聖地性担保を目的として出された市の諮問機関・平和記念施設運営協議会の答申によって、公園内は慰霊碑・記念碑の 建立が禁じられていた。そのため建立者たちは 1970年に平和記念公園から川をひとつ隔てた本川橋西詰に慰霊碑を建立したが、建立以後、碑がこの場所に建立されていることを めぐってさまざまな人々の見解や市政に対する批判がでた。1980年代後半から、 慰霊碑を公園内へ移設するための動きが活発化し、1999 年5月 22 日に平和記念公園内へ の移設がなされた。

1967 年9月 14 日、平和記念公園への慰霊碑・記念碑建立について、市の諮問機関である広島市平和記念施設運営協議会9)から山田節男市長にあてて答申が出された。 平和記念公園に建立を許可する最後の記念物として「平和の時計塔」を認めたこの答申では、「確認事項」として「平和公園内に記念碑、慰霊碑等か多くなったため、この時計塔 を最後として公園内には一切工作物を許可しないことを申し合わせた」とされている。 また、平和記念施設運営協議会結成の翌年 1965年には、「彫像・記念碑等の設置基準要綱」が定められ、そこでは公園内又は緑地内に彫像・記念碑等を設置しようとする場合の許可 基準が定められた。それによれば、「一般条件」としては、「公園又は緑地の利用目的を妨 げない」もの、かつ「美観風致を害しないもの」であることが求められる。また「彫像・ 記念碑等」とは具体的に彫像、記念碑・顕彰碑、文学碑の3つの分類が示されているが、 どれも「郷土に深い関係」のあるものであること、広島市との縁故の深さを基準としている。

1986年8月5日の慰霊式で、慰霊碑横に 作られた由来碑の除幕が行われたことについて、『朝日新聞』では 1970年の慰霊碑建立 の経緯について在日韓国人の姜文煕が「韓国人が死んだあともまあ差別され続けている象徴」と発言した旨が報道されている。慰霊碑の位置を「差別」と批判する内容の報道はこの年から始まった。これらの報道を受け、あるいは実際に現場を訪れてみて、広島市民をはじめとする人々が韓国人 原爆犠牲者慰霊碑について感じていることを新聞に投稿し始める。また市に対して抗議も行われた。それらは碑の移設を求める声である。

広島市は1988 年8月からあくまで「聖地」を害さない形での移設の方法を検討するなかで、平和記念公園への慰霊碑・記念碑の設置に関する規制を緩和する方針を示した。しかし移設の為の前提条件とは、平和記念公園に南北の対立が持ち込まれるのは「ヒロシマの心」に反するという意味から、「南北統一碑」をつくる、というものだった。平和記念公園は聖地として、争いのない、中性的性格を前提とされ、あるいは現実的に統一されていない二国家の統一碑を実現し得る場所とされていた。

慰霊の意味を込めた亀の台座も、双龍の冠も、各碑面の碑文も、この時すでに南北対立 を引き起こす議論の的・平和記念公園への移設という「差別」の解決を妨げる要因であり、かつ「聖地」を害するものでしかなくなっていた。碑文を削り取り、国家や宗教の色を弱める方針が広島市・民団・総連の間で固まりつつあったのである。「声」はその時上がった。 建立委員会の元委員長・張泰煕は、「碑に手を加えて移すのなら今の場所のままでいい」と述べ、市の対応はこの慰霊碑を「改竄」することであると強く批判した。

では、碑の「改竄」はどのように構想されたのだろうか。新たな碑では、削った碑面には「原爆犠牲者慰霊碑」と書き、そのうえに「萬古流芳」(朝鮮半島の人々の死は無駄ではなく、永遠に人々の心に芳しい流れとして生き続ける、の意)と刻む。裏面には韓国語と日本語を併記して「この碑は 1945 年8月6日広島に投下された原子爆弾によって犠牲となられた朝鮮半島の方々の霊を祀るとともに、世界恒久平和を祈念して建立したものである 1990 年8月6日 有志建立」とする方針が1990 年7月 15 日に明らかになった。 もとの碑文には植民地支配の歴史、強制連行・労働の歴史が刻まれていた。例えば韓民 族が国のない悲しみを骨の髄まで味わった」や「名分のない争いによって、無意味な死に 場所に向かっていった同胞軍人たち。鍬と鎌を持って牛馬のように働かせられた同胞徴用 者たち。離れ離れになって、生を求めてここに集まってきた同胞男女たち」といった記述 である。それは「「朝鮮半島の人々」の死」から語り出され、その犠牲を平和の礎と捉える「萬古流芳」とは大きな隔絶のある苦難を帯びた生と死、植民地支配下で日常生活に切り開かれた道を歩んで被爆した人々の苦痛が刻まれていた。こうした碑の「改竄」によって形作られるのが、「聖地」を保ち得る碑の姿だったのである。

「改竄」案は実現されず、さらなる時間を経て1999 年に慰霊碑は現状のままで平和記念 公園内に「移設」された。

全文は
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/25560/1/NG_32_067.pdf

参考
広島市当局が慰霊碑の建立を許可しない理由は、「昭和42年に、『広島市平和記念公園内には一切の工作物を許可しない』という申し合わせができているので、『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』はもちろんのこと、他の申請に対しても認めていない。」というものでした。
しかし昭和42年以降に同公園には次の4基が建設されました。
① 平和の石塚(昭和47年)
② 平和の記念像(昭和52年)
③ 旧天神町北側慰霊碑(昭和48年)
④ ローマ法王平和アピール碑(資料館のロビー 昭和58年)

 

 

 

 

 

 

 

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