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活動内容

2016.02.23

原爆ドーム

2010年の夏、県立美術館「廣島から広島へ ドームが見つめ続けた街」展、市立中央図書館「被爆65周年 平和記念公園をめぐって」企画展、広島市公文書館「レンズがとらえた昭和初期の広島」写真展、さらに、その関連の講演会など、広島県産業奨励館にまつわるイベントが目白押しでした。産業奨励館について新しい情報を、まとめて紹介します。(以下では、名称を「産業奨励館」に統一しています)。

▼ レツルは景観面から、都市のシンボルとしてのドーム(街の広い範囲からドームが見える)、ならびに、水辺のファザード(建物の正面が川に面している)を考えた。

▼ 産業奨励館建設に際し、元広島藩米蔵を取り壊したうえ、元安川を若干埋め立てて敷地を拡張。建築資材の搬入用にガンギが作られ、奨励館完成後は物品の陸揚げに使われた。竣工は1915年(大正4年)4月5日、正式の開館式は8月15日。

▼ チェコ・プラハのグランドホテル・エウロパは、1903-05年にセセッション様式で改修された。この時、レツルも助手として参加し、喫茶室の内装を設計。

▼ 産業奨励館でセセッションの特徴が顕著に表れているのは、変化に富んだ外観全体のイメージ、ドームの銅板や建物の壁に見られる正方形や長方形の幾何学模様、外壁の柱の上に渡したなげしなど。一方、建物の南にあった西洋庭園の噴水の吐水口の彫刻は人面で、この様式はセセッション以前のもの。噴水部分には旧様式が採用された。

▼ レツルはふくよかな女性のヌードを描くなど、曲線に対する美意識が強く、産業奨励館も東西に面した外壁は全て曲線で構成(裏側にあたる東面は半径228mの円弧)。さまざまな変化をつけながら、シンメトリーで統一感を出すバロックの影響を大きく受けた。

▼ ドームの形もルネサンス時代は正円だったが、バロックでは楕円形が取り入れられている。レツルは大日本私立衛生会の建物の設計で楕円形ドームを試していた。

▼ 建設は日本の職人が担当。レンガを使った曲面や楕円ドームの板金など、経験が少ない西洋建築を見事にこなし、技術の高さが見てとれる。

▼ 産業奨励館の裏に住んでいた田邊さんによれば、中の階段はらせん状ではなかった。中央の真直ぐな階段を上って、踊り場で逆に向きを変えて円筒の壁に沿った階段で上の階へ。

▼ 明治時代から全国的に県立の商品陳列所が作られていたが、木造建築が多かった。その中で、広島県の産業奨励館は、独創的な高次元の設計で注目され、当時の建築雑誌にも頻繁に取り上げられた。

▼ 当時、レンガ造りの建物の床は木造が普通だったが、原爆の衝撃波にはひとたまりもなく、床は落ちた。中心の円筒形の部分は壁自体が支えあう壁式構造で強かったため、その上に乗るドームの骨組とともに奇跡的に残った。正面入り口車寄せの左側の壁に薄茶色のタイルが残っている。田邊さんの説明では、これが唯一被爆前の産業奨励館の姿をそのままとどめている個所。

▼ ヨーロッパ(特にドイツ)では戦争遺跡を「マーンマール」と呼び「警鐘の記念碑」として文化財扱いしている。原爆ドームはまさにマーンマールである。昨年プラハで「核なき世界」演説をしているオバマ大統領の背景に大きなドームの写った写真がある。産業奨励館のドームを連想させる象徴的な写真だ。

(「原爆資料館ガイド有志の情報交換紙」からの引用です。)

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