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活動内容

2016.02.17

被爆者の心の傷と記憶違い

 

今でも続く心の傷
なぜヒバクシャの話には間違いがあるか

父は爆心地から3キロの場所で被爆し、2日後に疎開先の母の実家に帰宅。93歳で死亡した。帰宅したときに、母に「行方不明の生徒を捜していたので、帰宅が遅くなった。」、「帰りに自宅の様子を見に行ったときに、すぐそばの学校のプールは遺体で埋め尽くされていた。」と言っただけで、それ以後は何も話すことはなかった。
また、テレビを見ていて原爆のことが放送されると、すぐにそこから立ち去った。

母に自分の父親の悲惨な死について手記を書くように頼んだが、完成には一年かかった。筆をとるまでに半年、完成までにはさらに半年かかった。私は「いつ出来上がるんね。」とせかしてばかりいたが、今思えばトラウマのせいで手記を書くことはつらいことだったと思う。市内で目撃した惨状も書くように頼んだが、「他の人が書いているので、書きたくない。」と言って結局書くことも話をすることもなかった。このように、ほとんどの被爆者は今でも家族にもほとんど何も語らない。

 

母の手記
父の8月6日 
三登登美枝
2003年記
58年前のあの日のことは忘れる事のできない日である。また、思い出したくもない、語りたくもない日である。語ったとて、体験した者でなければわかるものではない。考えたくもないし、胸のつまる思いでいっぱいである。しかし、二度とあってはならないことを切望すれば、記憶にあることのみでも記しておくべきだと思う。
この日の爆音は今までのB29の音より異なって、腹の底に響くような低く力強さのある音だった。丁度家の外に出た時だった。真っ黒い大きな機体が呉沙々宇山の山に腹をすれすれに西へと姿を消した途端、大きな音がしたと同時に家の天井は落ち、煤が灰を撒くように降りてきた。後で気がついたことであったが、障子や襖や雨戸は斜めになって元の通りには動かなかった。
しばらく時が経って、広島市内が焼けているという情報が入ったが、半信半疑。「まさか」と思いつつも、時が時(戦時下の真っ只中)だけに胸騒ぎがする。近所の人たち同感だったのだろう、言葉もなく早足に山の上に登った。そこは毎年四月三日に近所のみんなが一緒にお弁当を持って花見に行った禿山であり、そこからは広島市内が真下に見える場所である。
そこで目にしたのは広島市内全体が炎を上げて燃えている火の海であった。みんな只、只茫然と立ったまま足が釘付けになって、全身を震わせて言葉も出なかった。これが現実とは到底思われなかった。そのうちに、それそれに市内へ出勤した家族のことが気になり、黙々と下山した。
静かな山村にもやがて罹災者のニュースが伝わってきて、それぞれに心を痛めている中に、「あの人が」、「この人が」ヤケドされたという声があちらこちらから聞こえてくる。何も手に付かずただおろおろとしてばかりである。そのうち、けがをされた人たちがトラックで罹災地から学校、寺などへ次々に運ばれてきた。
私は食事もとらず、いや、とることも忘れて、ひたすら父と主人の身を案じているうちに、外は暗くなってきた。もしや焼け死んだのではと口には出さなかったが、家族のものは不安で家の中や外でうろうろしていた。灯火管制中のこととて、電灯の光は鈍い。夜の九時ごろだったろか、その暗い中で「ただいま」の声がした。飛んで出てみたら、父であった。
まるで俗に言う「ゆうれい」かと思うほど顔は前後の区別がつかないほど真っ黒。着ている服はボロボロに破れてたれ下がり、丁度しわしわのワカメをぶら下げているようであった。ズボンも同じような状態で、所々にあいた穴からすすけて肌が黒く見えている。ともかく、生きて帰宅できたことにほっとした。
しかし、主人は一晩中帰宅しなかった。探しにいくこともできず、ただただ、心配の中に夜が明けた。翌日も帰宅しなかった。そして2日後にやっと帰宅した。主人は当時師範学校の教師で丁度校舎の階段の下に居て無傷だった。すぐに学生の救出に出たため、すぐには帰宅できなかったとのこと。
父はその日の通勤中に爆心地から600mの土橋で被爆し、土蔵の下に生き埋めとなった。時間ははっきりとは分からないが、二時間くらいもがいて、やっと頭を出したところを、学徒動員されていた学生さんに引っ張り出して頂いて、やっと外に出ることが出来たそうです。それから市内の焼けているところをさけて歩いていた時、知らぬ婦人に「熱いので、この日傘をどうぞ。」と頂き、それをさして半日以上かかって夜中にやっと家に着いたのです。
父は助かったことにとても喜んで家族の者や近所の方に「命拾いできました。」と喜んで話していました。それでも、傷は数えたら19箇所にあった。体にも痛む所があるので、治療に通っていた。ところが10日ばかり経った時、体一杯に赤い粟粒ほどの小さな斑点がでた。国立畑賀病院の院長先生に診察して頂いたところ、これは原爆のために毒ガスが傷口から入って、体中に広がっており、薬はないので手当てのしようがないとのこと。それでも「輸血でもしてみましょう。」と、息子の血液を幾度か輸血した。しかし、体はだんだん弱って口から、下から魚の内臓のような塊が洗面器に何杯か出た。体中の臓物が全部出てしまったようであった。その吐き出された汚物はとても異様な匂いがして。いつまでも消えなかった。
それからはどんどんと弱って動けなくなり、ノドになにも通らなくなった。栗の木の虫を黒焼きにしたらノドの薬になるというので、前の山の栗の木を切って、白い虫を取って焼いて食べさせようとしてもノドを通らない。あの手この手と薬のない時代の試行であったが、とうとう声も出なくなり、筆談となったが、なかなか力がなくて書けない。体はますます弱っていく。
死の3日前、自分名義の貯金通帳から引き出していたお金を、身内とお世話になった人に分けるように指示した。
9月3日の朝、7時のニュースを聞きたいから、寝巻きを着替えさせてくれと言うので、下着もちゃんと取り替えて、布団を高く背にして座らせると、じっと目をつむって手を膝の上に置き、正座のつもりか端正な姿でニュースを聞いていた。そのニュースは前日ミズーリ号で調印された降伏文書の内容であった。ニュースが終わったのが7時25分、父の息は切れた。几帳面で立派な父にふさわしい最後であった。

 

被爆者の証言を聞いていると、ときどき耳を疑うような話がある。「目の前の人が熱線のために一瞬にして消えた。(注1)」、「B-29の胴体が開いて原爆が落ちるのが見えた(注2)」、「目が飛び出した人がいたので、もとに戻してあげた」、などである。未だに「原爆にはパラシュートがついていた(注3)」「B-29は急降下した」と証言する被爆者もいる。他には勉強不足のせいか、「長崎では川がなかったのでキノコ雲はなかった」、「スイス人である)マルセル・ジュノーはアメリカ人である」、「広島の人は今でも放射線で汚染された野菜を食べている」などと言う被爆者がいる。様々な数字についても、最新の数字でなく古い数字を言う人も多い。
また、当日悲惨な体験をした被爆者が証言を続けるうちに、体験できるはずがない話を入れるようになり、それを見抜いた友人たちが、彼女と距離を置くようになったこともある。

(注1)爆心地付近の温度は3,000~4,000℃あったが、一瞬のことなので、人の体は黒こげになったが、蒸発したり、白骨になることはない。まして川の水が熱くなるなどありえない。
(注2)原爆が投下されたのは高度 9,600m なので、肉眼で見ることはできない。
(注3)「はだしのゲン」には今でも原爆にパラシュートが付いた絵がある。しばらくはパラシュート付きラジオゾンデが投下されたのを見て、このように思い込んだ人が多くいた。中沢さんは「物語」だからといって、どうしてもこの絵を訂正しなかったが、影響が大きいので、亡くなる前に直して欲しかった。

書き終わった母の手記を読んでみると、納得いかない記述が数カ所あったので、話し合って事実に近い表現に変えた。例えば「B-29はいつもより低空飛行だった」という部分を訂正しようとしたが、母は「実際に見たので間違いない」と、言い張った。客観的な証拠を示して、やっと納得した。このようにヒバクシャは自分の見たという事が事実と違っていても、なかなか認めない傾向がある。

被爆者、特に直接被爆者は自分の悲惨な体験をすべて詳細に覚えていることはまずあり得ない。当時幼かった被爆者はなおさらである。被爆者は入市被爆者でも記憶欠損は起きる。証言の際、欠損した部分を正直に話せばいいのだが、欠損部分を補うために、悪意ではないのだが後に得た情報を入れ込むことがある。そのような証言を続けるうちに、その情報までが自分の体験のように思い込むことがある。

ある研修会で被爆者の手記を研究している大学の先生の話を思い出しました。それは「時を経て書かれた手記には思い違いや、他人の経験が入りやすい。その点で一番いいのが、岩波文庫「原爆の子」(広島の少年少女のうったえ)に掲載されているの子どもの手記です」ということばです。ただし、被爆した時の年齢が若すぎると、記憶はおぼろです。

フラッシュバックは被爆者によくありますが、とくに「臭い」がその引き金になるようです。私の母も、ある臭いによって祖父の下痢(腐った腸の粘膜と血)や嘔吐物(腐った胃の粘膜と血)の悪臭が蘇ってくるそうです。知人の被爆者は髪の毛が焼ける臭いで、死体を焼いている光景がが蘇ると言っていました。原爆以外でも悲惨な体験をした人はフラッシュバックは起きます。普通の人には何でもないようなことが、体験者を「その時」に連れ戻すのです。

また、ヒバクシャは体調が悪くなったり、病気になるといつも、「もしかしたら原爆のせいではないか」と思ってしまう。福島でも同じ事が起きるのでしょうか。

被爆被爆体験ではありませんが、被爆当時小学生だった被爆者が、原爆ドームの側にある噴水について次のように話すのを何度も聞きました。「子どもの時にここで遊んだので、私の言うことには間違いがない。噴水には”ライオン”の頭の像がついていたんです」と、説明しますが、実はライオンではく、ガーゴイル(下の写真)という怪獣です。日本ではなじみがないので、子どもの目にはライオンに見えたのでしょう。1年ほど前、その人にこの写真を見せたところ、素直に自分の勘違いを認めました。しかし、その人はまた「ライオンの頭だ」と説明していました。一度刷り込まれた情報は簡単には抜けないようです。
その人はまた、「ドームの天井の窓にはきれいなステンドグラスがあった」と説明していますが、それは勘違いです。実際は色付きガラスをはめた戸がベランダへの出口にあったのです。今ではその気になれば誰でも正しい情報を得る事ができるので、私たちガイドはきちんと説明をしなくてはいけないと思います。

原爆ドームの噴水にあった本物のガーゴイル 16.ヒバクシャの心の傷と記憶違い

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