山城(360m/60m)
文明7年(1475年)毛利豊元は東軍方の横坂要害などを切り落とし、山名是豊を備後より追い落とした。この功によって伊多岐(板木)・重永・山中などに所領を得て千代寿丸(毛利弘元)に譲り渡した(毛利家文書151)。この横坂要害が龍王山城と見られている。龍王山城は馬洗川の北岸、西に流れるその支流に沿って南へ張り出した丘陵の頂部に築かれている。龍王山城は南北200m程の規模で、北端頂部に北から西側にかけて帯曲輪が巡る主郭があり、南にやや狭い二郭、その南に南北に長い三郭と続く。その南に堀切があり、続けて西側に帯曲輪が付いた出丸が残る。主郭の北側は自然の鞍部が大きく入っており堀切の代わりとなり、東へ伸びる尾根は弓形の堀切で遮断している。そして三郭から主郭までの側面には畝状竪堀群が取り巻いている。
横坂天満宮
菅原道真公を祭神とする神社現在では学問の神としてひたしまれています横坂天満宮は菅原道真が全国に12000の分宮をされた内の一つである。650年前からではないかと言われている。
五輪の塔 龍王山城 1475年までは山名是豊が城主だった。この年に毛利豊元(毛利元就の祖父が)山名を攻め落とす)その時の戦いで戦死した人の無名の墓。五輪塔ではないかと思われる。地元の方が長年にわたり守ってきた。